祖父の建てた家

2011年末、祖父が遺した家で生活をしてきた。
体験として強烈だったので、自分のためにすこし文章化してみようと思う。

長崎の洋風建築を研究していた祖父は、20年ほどまえ海辺に家を建てた。見渡す限り海と森と、天気が良ければ遙か向こうに島原天草が見える場所にあり、以前は夏や正月をよく過ごしたけど、ここ数年空き家がちになって処分することになった。東京にいてはもう何度も行くことはできないだろうと思い、お別れに一人で1週間住んでみることにした。

祖父にとって「男は家を建てなければならない。しかも家族と共に」というのはひとつの信念だったようで、当時70歳を超えていたが、柱に使う杉の皮むきや基礎工事などできるところは家族と共にやった。祖父の手がける家づくりは家族総出で行うというのがならわしだった。これは息子娘達が結婚し子供を育ててからも続き、毎週末家づくりに駆り出されてとても大変だったらしい。いまでは笑い話として聞く程度だけど、その時の経験は母や叔父叔母には複雑な思いや、その後の家族観として残っているのだと思う。

僕は小学校低学年の頃にこの家に初めて行った。永久に続くかと思える山道を車酔いで吐きそうになりながら(実際妹は吐いた)やっと着いた記憶がある。父親たちと近くの磯で釣りをするけど毎回ほとんど釣れず、しばらくすると釣りすることもなくなった。海は一見きれいな砂浜のようだけど、潮が引くと岩だらけで不格好な小磯がひろがり、夜は波の音がうるさくて寝づらかった。天気も変わりやすく、曇りの日はどこか寒々しい知らない国の海岸といった感じだった。なんとなく抱いていた明るい海のイメージとは微妙に食い違っていて、なぜ祖父は長崎の海辺の中からわざわざこの場所を選んだのか、不思議に思うことがあった。

それから20年ほどたった2009年、偶然インターネットに公開された祖父の論文を見つけた。
長崎における幕末および明治初期教会堂建築と伊王島大明寺教会堂建築について
日本建築学会, 1977.04

幕末、キリスト教を隠れて信仰していた人たちが、民家を装った教会をどのような構造で作っていたかを研究する内容だった。祖父は僕の知る限りクリスチャンではないが、建築に関する視点から当時の間取りや工法などを調べている一方で、浦上の人々が苦難のなかで密かに信仰の拠点を築く歴史が丁寧に書かれている。30年以上前に祖父が書いた論文が、東京の自分のMacに飛び込んできたことに眩暈を覚えた。僕は祖父と一緒に遊んだり、なにかをした記憶がない。論文を読んだことは、祖父から直接メッセージを受け取ったはじめての経験だった。

祖父の家を処分するということを聞いて、まとまった期間一人で住む準備を始めた。家には電気ガス水道はあるが暖房器具がほとんどなく、ネズミが沢山いるとのことだった。人に遭うことはまずなく、夜は完全な暗闇になる。助けを求めても誰にも気づいてもらえない場所で正気を保てるか不安だったけど、一人で住めば祖父や祖父の仕事について考えることになるし、それは僕がやるべきだろうという気がした。インターネットにアップされた論文を見つけたとき、そういうものを一緒に受け取った感じがする。それと同時に小さい頃から感じていたこの場所に対する違和感のようなものも最後に更新しておきたいと思った。

唐突な話だけど、ここ数年、ルアーで大型の青物を狙う釣りに取り組んでいる。ただの趣味だけど、僕にとっては父から覚えたものを洗いなおして、自分のものに組立てなおす作業でもある。今になって思うが、父は釣りが下手だった。小さい頃はそんなことは思いもしなかったけど、彼にとって釣りは考えるための場所ではなかったのだと思う。この姿勢はおそらく人生の選択にも現れていたはずで、僕にも受け継がれている。その後父は母と別かれ、僕は海で釣りをしなくなった。こういうことについても整理しておきたい。そう思って、今回祖父が建てた家に住みながら、釣れないと父が諦めた、目の前の海で魚を釣って暮らしてみることにした。

途中の商店でパスタ1kgと野菜をすこし買い、釣り道具と寝袋とカメラをもち、携帯からはFacebookとTwitterを削除して海辺の家に向かった。以下そのときの簡単な記録

1日目 家の状態を確認したり使える電気ストーブを探して、台所のねずみの糞を掃除する。ウィスキーを持って来なかったことを後悔したが、戸棚を探すとまだ空けてないウィスキーがおいてあった。祖父がとっておいてくれたのだと思う。夜一人で過ごす恐怖心がなくなる。

2日目 早朝から食糧確保のため釣り、小さなカサゴが釣れる。貴重な肉なのでしっかり持ち帰る。釣りを終えて別の磯を探索する。だいたい行くことの出来る北限と南限の磯を把握する。帰り道にムラサキイガイやイボニシガイ、岩牡蠣、ウニを採集して夕食に混ぜる。美味しいが量が少なすぎる。

3日目 早朝から釣りに出かける。何も釣れない。前日ウニをとったときに靴を濡らしてしまい乾ききっていないため、寒さに耐えれず家に帰る。雪気温7℃ 部屋が温まらない。ネズミの糞の浮かぶ風呂に入る。

4日目 明るくなって岩を登り降りしながら北限の磯で釣る。思ったより浅くなにも釣れない。帰りに昨日より多めにムラサキイガイとカメノテを持って帰ってパスタと食べる。

5日目 食中毒で夜中から激しい下痢。貝毒。食べ物を確保しなければいけないので、釣りにでかける。なにも釣れない。9時に帰宅して仮眠。昼から山を登って新しい磯への道を探す。途中ミカンの収穫をしている農家の人に聞いてたどり着く。このあたりはイノシシやシカが多いらしい。祖父のことも覚えている人たちだった。ミカンをたくさんもらう。体が弱っている気がするので初日のカサゴも食べてしまう。

6日目 昨日みつけた山を越えた磯に明るくなってから入る。周りに比べるととても深いが何も釣れず帰る。もうなにも釣れることはないと思い諦める。虫を食べようかと考え始める。

7日目 帰りの支度に一日費やす。ここまで食の足しになる魚は1匹も釣れていない。最後の夜、釣具も梱包したが思い直して明日の9:00までもう一度やりきろうと決める。

8日目 最終日 夜明けまえに磯に立ちたいので真夜中の山に入る。怖い。が、もう来ることはないかもしれないのでやる。夜明け後ほどなくして大きな魚がかかるも、根にまかれて捕ることができず。帰る直前にもう一度魚がかかり釣り上げると45cmのヒラメだった。最後の最後で報われた。食べる時間はないので締めてクール便で東京の自宅に送る。自分もバスで帰るはずが、年末ダイヤでバスがなくヒッチハイクして長崎市街地へ戻る。

簡単にまとめれば、食べ物のことに翻弄されただけの1週間だったけど、そうすることでよりこの土地と真剣に関わることができた気がする。それはこの土地に家を建てた祖父や、この海で釣れないと諦めた父ともつながっている。もうこの家に行くことはないかもしれないけど、それでも後悔はしないだけの体験にはなったと思う。

Posted: January 13th, 2012 | Author: | Filed under: outdoor, 食べ物 | No Comments »

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